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20251030_回想2 漆黒のブラック会社

  • 中川朋樹
  • 10月30日
  • 読了時間: 3分

元旦、飯田橋は東京大神宮の初詣。 長蛇の列が、信号を越えた向こう側まで伸びていた。 恋愛成就のご利益があるということで、ほとんど若い女性だった。 そんな光景を窓越しに眺めながら、

コピー機からはき出されるレイアウト用紙を手に取る。


デザイン事務所を退職後、どうにか転職できた制作会社では、元旦から出社していた。

ここでは、現代(いま)の感覚では信じられないほど

漆黒のブラック環境を体験することになった。



朝は7時頃に出社し、夜は終電後のタクシーで帰った。

社員のほとんどがタクシー帰りだったと思う。

夜10時頃に帰ろうとする人がいれば、

「今日は早いですね、何か用事ですか?」なんて声をかけられていた。


ある日、経費か何かの都合でタクシーが使用禁止となり、

走って終電に飛び乗るようになった。

それも次第に面倒になり、週に3回は会社で寝泊まりするようになった。



夜9時からの打ち合わせも普通だったし、夜中3時に電話対応している人もいた。

月曜提出のコンペのため、土日でフルカンプを仕上げたりした。


土日出勤は当たり前。全てサービス残業。

有給休暇なんてとったこともない。年俸制で給料は変わらない。


会社の忘年会は、社内の応接室でケータリング。 お酒を飲み歓談しつつも、仕事がある人は随時デスクに戻って作業やメール対応をした。


睡眠時間はおそらく平均4時間を切り

風邪も引きやすくなったし、なかなか治らなかった。



当時は、ブラック企業やホワイト企業といった概念がまだなかった気がする。

「ワークライフバランス」という言葉が世に出始めて、

その提唱者の特集記事を誌面として作っていた頃だった。


のちに電通社員の自殺がニュースとなって、働き方が見直されるようになったが、

制作系の会社はどこも似たような感じだったのではないだろうか。


自分の後に入社した人たちは、1〜2年で少なくとも10人は辞めていった。

きっと異常な空間に見えたと思う。

ここに残っていた人は独身で、離婚後の養育費のためだったりと

生活にちょっと影があり、性格に難のある人ばかりだった。



50歳で癌で亡くなった人、 45歳で心臓が止まり、胸にペースメーカーを入れた人、

この仕事を続ける先の将来に恐怖を感じた。


常に複数件の担当媒体が稼働していて、作っても作っても終わりが来ない。 完全なワーカホリックとなって歯車の一部として回り続けた。

過労死ラインなんて何周超えてただろう。


むしろ休むことに不安を覚えるほど、

一種のトランス状態だったのかもしれない。




そこまで働き詰めている中で、

ここでも人間関係のトラブルに見舞われていた。


つづく





 
 
 

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