20251030_回想2 漆黒のブラック会社
更新日:10月12日
元旦、飯田橋は東京大神宮の初詣。 長蛇の列が、信号をまたいで向こう側まで伸びていた。 恋愛成就のご利益があるということで、ほとんど若い女性だった。 そんな光景を窓越しに眺めながら、
コピー機からはき出されるレイアウト用紙を手に取る。
デザイン事務所を退職後、どうにか転職できた制作会社では、元旦から出社していた。
ここでは現代(いま)の感覚では信じられないほど
漆黒のブラック環境を体験することになった。
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朝は7時頃に出社し、夜は終電後のタクシーで帰った。
社員のほとんどがタクシー帰りだった。
夜10時頃に帰ろうとする人がいれば、
「今日は早いですね、何か用事ですか?」なんて声をかけられていた。
ある日、経費の都合でタクシーが使用禁止となり、走って終電に飛び乗るようになった。
それも次第に面倒になり、週に3回は会社で寝泊まりするようになった。
夜9時からの打ち合わせも普通だった。夜中3時に電話対応している人もいた。
月曜のコンペ提出のため、土日で一冊フルカンプを仕上げたりした。
休日出勤当たり前。サービス残業当たり前。有給休暇なんてとてもじゃないが申し訳ない。
年俸制で給料は変わらなければ、ボーナスなんて概念もない。 退職金などあるはずもなく、どんな理由であれ自己都合退職が強制された。
会社の忘年会は、社内の応接室でケータリング。 お酒を飲み歓談しつつも、仕事がある人は随時デスクに戻って作業やメール対応をした。
睡眠時間はおそらく平均4時間を切り
風邪も引きやすくなったし、全く治らなかった。
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当時は、企業の「ブラック/ホワイト」といった風潮はまだなかった気がする。
「ワークライフバランス」という言葉が世に出始めて、
その提唱者の特集記事を誌面として作っていた頃だった。
のちに電通社員の自殺がニュースとなって、働き方が見直されるようになったが、
制作系の会社はどこも似たような感じだったのではないか。
自分の後に入社した人たちは、わずか1〜2年の間で少なくとも10人は辞めていった。
きっと異常な空間に見えたと思う。
ここに残っていた社員は独身か、あるいは離婚後の養育費のためなど、
人生にちょっと影があり、性格に難のある人ばかりだった。
50歳で癌で亡くなった人、 45歳で心臓が止まり、胸にペースメーカーを入れた人、
そういった先輩を見て、この働き方を続ける未来に恐怖を感じた。
常に複数件の担当媒体が稼働していて、作っても作っても終わりがない。 完全なワーカホリックとなって歯車の一部として回り続けた。
過労死ラインなんて何周超えてただろう。
むしろ休むことに不安を覚えるほど、
マインドコントロールされた状態だったかもしれない。
そこまで働き詰めている中で、
ここでも人間関係のトラブルに見舞われていた。
つづく

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